*****本川小学校平和資料館*****



 本川小学校は,昭和20年(1945)8月6日の原子爆弾の投下の際,爆心地に最も近い学校として大きな被害を受けました。
 校舎は,外部を残して全焼,壊滅し,約400名の子どもたちと校長ほか10名の教職員の尊い命が一瞬のうちに奪われました。
 この、「平和資料館」は,昭和3年に広島で初めて建てられた鉄筋3階建ての校舎で、昭和63年まで使っていた、その一部ですが,原爆の被害を受けた状態をそのまま残し被爆の「証」として保存することにしました。
 「展示室」には、被害の様子を写した写真をはじめ,被爆した遺物などを展示しています。資料の一つ一つには,多くの人々の悲しみや願いが秘められています。
 これらの資料から,平和の大切さと人命の尊さを学んでいただきたいと思います。

(以下、資料館パンフレットより抜粋)

1、昭和20年(1945)8月6日の様子

 昭和20年8月6日「戦時体制で夏休みは10日から20日まで」
あの日は,平日授業であった。爆心地から350mの至近距離にあった本川国民学校は,川崎校長ほか,10名の教職員と約400名の子どもたちの生命が一瞬に奪われ,その実態は今でも不明である。
 あの日,奇跡的にも生存しているのは二人といわれている。その一人,筒井さんは,あの朝近所の同級生,青原和子さん(被爆死)と登校。鉄筋コンクリート3階建て東校舎の1階靴脱ぎ場に入った瞬間,ものすごい音とともに周りは真っ暗になった。明るくなるのを待って二人は運動場へ出た。
 学校は始業前で,あの時運動場で何人か遊んでいた(その中に同級生の高木さんがおり,やけどで黒こげのようになっていた)と、友を思い浮かべる。運動場は爆心地からさえぎるものもなく、一瞬に熱線で焼かれたにちがいない。
 筒井さんや青原さんに大きなけがはなかった。運動場から出てきた先生は,耳から出血していた。青原さんとすぐ近くを流れる本川に出て,猛火で熱いので満潮(満潮は午前8時5分)の川に入っていた。一緒にいた高木さんは小舟の上で息をひきとった。(泣くだけで,何の感情もなくぼう然としていたのが実情)と、焦熱下極限の体験を重苦しく話す・・・(中略)
 このようにして、多くの人々の生命が奪われ,壊滅した状況はせい惨そのもので,言語に絶するものがあったと想像される。

2、廃墟に立ちあがって
 〜当時本校の教頭であった山本亀治先生が九十周年誌に寄せられた手記より〜

 あの時原爆直下の本校は市内の学校中最大の惨害を受けて,その頃少なかったコンクリートの校舎の残骸を残して壊滅した。
 廃墟の学区内にトタン小屋が建ちはじめた頃,残存児童が外廓だけの校舎に復帰し,授業を再開したのは,昭和21年2月23日であった。
 当時木造校舎のため全焼した広瀬,神崎両校も本校に併置され,学童は全部,本川国民学校児童として通学した。
 しかし,授業再開とは名のみ。窓は無く,ただ曲がりくねった鉄の枠だけ。床板も無く黒板も無い。備品といえば,がらん洞のかこいの中に,わずかの児童机,腰掛が見えるだけであった。
 教室では,机,腰掛の不足は,レンガを拾わせそれを積んで板ぎれを渡して代用した。
 瓦礫の散乱した床板のない,でこぼこの教室で,ボロ靴,素足のまま空腹をかかえわずかの学用品で熱心に学習したものである。
 雨の日は,雨もりがはげしいので,こども達は右に左に座席を移動するのに忙しく,風雨の日は,室内の半分以上は,外とまったく同じ状況にさらされ,授業は休止しなければならなかった。
 宿直の職員は,吹き通しの教室の北側に,むしろや戸板をあてて北風を防ぎ,事務机を並べてその上でうすいふとんにくるまり,電燈のないへやの床に焚火をしながら,一夜を明かしたものである。
 そんな中,狭い運動場の瓦礫を円く取り除き,用具もろくにない小運動会をした時の感激は,大変なものであった。
 その後,校庭にあった骨塚の大きな骨は拾い集められ,空鞘町の土手にあった納骨堂へ納められた。
 これは、後日寺町の広島別院と平和公園の納骨堂に分けて納められたと聞く。
 あの時の川崎校長先生をはじめ教職員,児童の冥福を祈ります。
 以後,学区内の方の協力により,現在のように整備された美しい本川小学校となった。